英国人のバランスセンス
或る日わたしは片田舎のパブにいた、コーンウォール半島の奥まった処で、英国は南西部である。わたしはこのパブに前の年も来ていた。それ以来、何も変わったとは思えなかった。しかし、尿意を催して席を離れ、用足しにトイレを探すと、それは一階のどこにも見当たらなかった。直ぐに分かった事だが、それは二階に移されていた。
バーの席に戻るとわたしはカウンター越しに男に話しかけた。話に引きこもうと思ってのことだった。わたしは彼にこのパブがなんらかの改修を経て洗面所のみを上に移したのかどうか尋ねた。彼はわたしに一瞥をくれると、三十代前半の男だったが、わたしの問いに対して全くなんの反応も見せずじまいだった。そして彼は店の中に消えてしまい、するとまるで何かの合図でもあったかのように、若い黒人女性が目の前に現れた。彼女は全面に笑みを浮かべていたが、一言としてその豊かな、厚い唇をついて出る言葉はなかった。当惑して、わたしは黙ってビールを呑み続けた。
暫くして、わたしはパブからパティオ風の庭へ出ていくつかある椅子の一つに坐った。大きな分厚い木製のテーブルの回りに置かれたもので、客達が外の空気を楽しむためである。ビールのグラスを手にして、わたしは様々な色合いを見せる夕べの空を見上げた。西方には幽かな茜色、陰りゆく東は雲を集めて夜に向かっていた。
突然、中年の男が現れて、何気ないふうにわたしの方に歩いて来た。全く見知らぬ人である。わたしはちょっとギクッとしたが、それは生き物としての本能が生きとし生きる身に当然生じさせるものだった。男はわたしに話しかけて来たが、穏やかな声の調子だった。彼が言った趣旨は、昔、この店のトイレは一階にあった、それが ”変化があって皆はそいつを二階に上げたんだね、そうじゃないか?” というものだった。驚いて、わたしはどう応えていいか分からず、ただ言ったのだ。”そうなんだ、変っちゃったね.” 彼はゆっくりとわたしに耳を傾けて、踝を返すと、いずことなく夜の彼方へ消え去った。その正に瞬間、わたしはうっかり自失もいいところで何が起きたのか分からなかった。一体全体どうして現地の白人が全くのよそ者、おまけに放浪者風で明らかに東洋の男に話しかけたりするだろう。これには何か訳があるに違いない。
振り返って、わたしは遅まきながら悟ったのだが、この中年の男性はわたしと同じくパブの中のカウンター席にいたのだろう。彼はカウンターで何が起きているのか見守っていた。そこで起きた事をこの紳士がどう思ったのかわたしには分からない。ただはっきり分かるのは ”話しかけ話しかけられる”のは当然何か互いの釣り合いを取られて初めて定式が成立するものなのである。彼はバーでこの釣り合いが崩れるのを見たのだろう。そして決めたのが外れた釣り合いを正すということだった。
立ち去る前、彼はわたしを顧みて、わたしは彼を見上げた。よろしい。コーンウォールの夜は誰にも等しくしのび寄っていた。わたしは立ち上がり、帰路に就いた。宿主の許へ、とても軽い気分だった。

 British Balance Sense 訳