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泣く女
    スプレー川沿いのベンチに坐り、降って来た雨を避けて、暫くプラタナスの大きな葉の陰で休んでいた。その内に本降りになり、傘を取り出して座り続けた。他に二人、やはりベンチに坐っていたどこかの男とこれも別のベンチの女と、やがて雨足に耐えかねて去って行った。
 雨がまだ本降りにならないでいた頃だった。女性のジョッガーが小生の目の前を後ろ向きになって小走りにやって来ると、不意に立ち止まって、顔をくしゃくしゃにして泣き出した。びっくりして、視線を凝らして見たのだが、彼女はすぐクルッと踝を返し、前を向いて、ペパーミントの上半身と黒のスパッツが雨の中に消えて行った。
 昨夜、因みに、夜中に目覚めると、オーストラリアから来たと言う明るい感じの彼女がベッドの中ですすり泣いていた。昼間、彼女はそんな姿をおくびにも出さないでいた。
    初めて彼女が部屋に入って来た時、ボクはドイツで初めて日本人に会い、しかも同宿人の若者で、小林君という大阪人の大学生だった。その彼と話し込んでいる最中、大きなバックパックを背負って若い女性が入室して来た。オーストラリアから来たと言う。ボクがやはり最初にこの部屋であった若い女性はシドニーから来ていたよ、そう告げると「わたしもシドニーの近くからよ」とか。室内には小林君と二人だけでいたので、彼女にはずっと一緒にいたように思われたらしい。聞かれたので、いや、ここで、ついさっき初めて会ったのだ。「I met him just now for the first time」と答えると、彼女はニコニコ、ちょっと浅黒くて、白人でも色黒の方なのか、どうなのか、分からない。微笑みを絶やさず、人柄の良さそうな女性と思われた。その彼女がベッドの中で静かに泣いていた。真夜中、いったい、何が彼女を泣かしているのか、どんな悲しみなのか、オーストラリアからドイツまで持ち越した悲しみなのか、ベルリンで覚える悲しみなのか?
翌日、彼女はいつもどおり爽やかな笑顔で、大きくて重そうなバックパックを背負い、手にも大きな荷物を持って、部屋を出て行った。会えて良かったわ。日本の爺さんのボクにそう言ってくれた。All the best, ボクはそう言って、彼女の後ろ姿が扉の外に消えるのを見送った。

weinen hat seine Zeit, lachen hat senie Zeit - Der Prediger Salomo (Kohelet) 3-4

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言語
初めに、言葉があった。ヨハネ福音書はこう言って始まる。
Au commencement de toutes choses, la `Parole existait déja (Ėvangile selon Jean)
Im Anfang war das Wort (Das Evangelium nach Johannes)
In the beginning was the word (The Gospel According to John)
この程度の外国語ならボクはなんとかなる。欧州に行く時はこんな言葉をごちゃ混ぜにして使って楽しむ。
ある日、ボクは午後も早めに宿に戻った。期待した通り、八人部屋に居残る若者の姿は一人としてなく、ボクはこの間にシャワーを浴びたりして、少し休み、また外出する。同宿人が一緒の時はどうもシャワーなど使いづらい。
さて、ガランとした部屋に入ると、既に掃除は済んでいて、ベッドもきちんと片付けられていた。ただ一つ、入って右側の壁に接した二段ベッドの上段は誰か人の使った形跡があった。
気付くとボクの背後に掃除婦と思しい若い女が立っていた。どうやら中国系がベトナムあたりの若い女と見受けられた。あのベッドはあなのものであるか?たどたどしい英語で彼女は使用形跡のあるベッドを指さした。違う。ボクは英語で、ボクは今日から正面にあるベッドの下で寝る。昨日までは上だったが、変えたのだ。そう言うと、彼女はよく理解できない顔付きに見えた。それでボクは当該のベッドを指して、ざっと、von heute (schlafe ich) unten, aber bis gestern schlief ich oben. ドイツ語で言ってみた。すると、彼女は顔がバッと明るんで、分かった、と言う表情が実に華やいで見えた。彼女がどういう事情でベルリンの安宿で働いているのか、ボクはむろん知る由もない。ベトナム戦争あたりの混乱から逃れてドイツに来た親の許で生まれ育ったのか、どうか。いずれにせよ、彼女の話す母国語はドイツ語らしかった。通じ合った時の嬉しさがその表情一杯に溢れていて、ボクは見て自分もひどく嬉しい気分になった。たった少しのドイツが大きな距離を埋める。
後日、帰国の日も近づいたある夜、ボクの上段に寝て、ベッドを共有したのはスラリとして、暗くて顔は良く見えなかったが、モロッコから来たという若い女性で、ボクがフランス語で、Je suis Japonaisと話しかけると、彼女は、えっ、と反応して、ボクはまた、Japonaisと返すと、彼女は意外そうな感じで立っていた。ボクは更にOn parle français au Maroc, とか言うと、拙いフランス語でも、彼女はボクがフランス語を話すのか! と驚いてくれて、良かった。モロッコからベルリンまでどの位、時間を要したのか、聞くと、訊き返して来たので、Combien de temps のボクの発音が下手だったのか、時間だよ、l’heureと言い換えると、Oh, l’heureと判ったらしく、四時間かかったとの返事だった。近いね、やはり、アフリカは。どこでフランス語を習ったのかというような彼女の質問もあった。ドイツにいて、やりは、仏語は珍しいのか、懐かしいのか、ボクはとにかく、三年前と言おうとして、devant (in front of)が頭に出て、Il y a trois ans と言うのが出来なくて、兎に角パリにいたことがあってとか、言い訳めいて、それでも彼女は解ってくれて、良かった。Sprechen Sie deutsch ?とも聞いてみたが、もちろんという答えで、スペイン語も少し話すとか。これからイェナにある学校で、コンピューター関係の勉強をするとか言っていた。この彼女は一晩だけで、次の朝、ボクがベッドに腰かけていると、出立の準備を手早く終えて、ボクに会えて良かったみたいな事、有難うと言ってくれて、なんだか有り余る感謝の言葉に、ボクはただやはり、merci, au revoir, au revoirとバカみたいに繰り返して、彼女の後ろ姿を見送ったのは、少なからず、残念な気分だった。けだし、ラテンの女神が舞い降りてきたみたいだった。もっと仏語、やらなくては。

付け足し

People the world over will agree that it is a matter of course that one cannot speak a foreign language. However, we Japanese people cannot think that way. We tend to think that it is shame to be unable to speak, say, English, a language totally foreign to us. Is this just one of our so many idiosyncrasies, or, is this simply because of us Japanese being all so perfectionists? Maybe. Anyway, I’ve had lots of bitter experiences to have my fellow Japanese look at me as if to say (some actually said in an Hango – ironical reversed art of speech). “Shame on you, to speak English such way. It’s obvious. You’re far from perfect!”

Alas, still, I’ll keep on using the language, speaking, writing or in whatever way.  

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親切
ベルリンにボクは観光旅行を目的として来たのではない。それでも是非とも訪れたい場所があった。動物園だ。そのベルリン動物園からの帰り道、ボクは宿に近いOranienburgerという地下鉄駅まで、U-Bahn-Stationを探してウロウロ、あった、あった、Zoologischer Gartenと言う名の駅を見つけ、そこに続く地下通路で見つけた鉄道網を眺めていた。ふと気づくといつの間にかボクの脇に立って初老の男がいた。Kunden SVC (顧客サーヴィス)の係りだったらしく、ドイツ人にしては小柄で、人の良さそうな感じ、それらしいござっばりした身なりだった。「Oranienburgerには地下鉄では帰れない。S-Bahnに乗って行かなければならない」彼はそう言ってボクのやって来た道を戻り、階段を上って、S-Bahnの見える処に出て、路線図も手渡してくれた。穏やかに、にこやかに、終始親切な態度だった。ボクは最後に握手して彼と別れた。下手でもちょっとはドイツ語で少し何か話してみるべきだったと、これは例によって幾つになっても臆病なボク爺さんの後悔ではある。
 果たして帰り道、しかし、S-Bahnに乗ったはいいものの、ボクはどうやら逆方向に向かっている事に気付いた。やって来た時に見かけた駅の名が出て来ない。Savignyplatzとか、まるで見知らぬ駅名が目の前を去っていく。窓際に立ってこうして良く見る事が出来たのも、最初、車両に乗り込んだボクがほぼ真ん中辺りに立っていると、扉近くにいた若い男が「この方が楽だろう」とボクに場所を譲ってくれたのだった。ぼけっと、所在なげに立っているボクに気付いて、気を使ってくれたのだ。嬉しかった。礼を言って、扉側に寄り掛かる様にしてボクは過ぎ去る駅を見ていたのだ。それで可笑しいと気付いた訳だった。ボクは慌てて次の駅で電車から飛び出た。Charlottenburgという駅だった。
、、、、、つけても思い出されるのはパリで一人、古希を祝ってメトロを乗り回していた時の事だった。やはり親切な若者に出会った。カルチェラタンからの帰路、ボクはメトロ7号線に乗って、席がなかったので車両の隅っこに立っていた。ボクの近くには非常用の席を倒して黒人の若者が坐っていた。ボクはバックパックではなく、横長のスポーツバッグに五十四センチある尺八を入れ、それを肩に引っ掛けていた。歌集や譜面、ミュージックスタンドも入って、かなり重かった。多分、ボクは疲れた顔をしていたのだろう。黒人の若者と目が合った。同じ黒人とは言っても人によって肌色は違い、濃淡も異なる。若者は取り分け黒く、しかも顔の左側は額から頬にかけてサメ肌のようにざらついた感じだった。その目は異様に赤い。視線が合った時、彼は鋭い眼差しを向けて来た。ボクはすぐ目を逸らしたが、少しして、青年が、坐れ、とジェスチャーしてきた。席を譲るよ、と態度で示したのだ。ボクが素早く彼を観察したように、彼もまたボクを見て、明らかに東洋のどこか知らぬ国から来た、少なくとも老人であるのは即座に悟ったのだろう。「いいよ、大丈夫だよ」、ボクは空元気を見せて言った。英語でしか言えなかった。「Don’t worry, it’s all right with me」心配しないでいいよ。しかし、若者は気持ちを変えなかった。座ってくれ、繰り返した。それ以上断っては却って失礼になる。せっかくの相手の気持ちを無駄にしてしまう。メルシー、「merci beaucoup」ボクはせめてそう言って、譲られた席に腰を下ろした。そして自分がどんなに疲れていたか、坐ってみて分かった。有り難かった。故国日本でも若者に席を譲られたことなど滅多にない。それどころかシルバーシートに坐って平気な若者をどれほど目にする事か。他人に対して冷淡だと評判のフランスでこんなねぎらいを受けるとは夢にも思ってはいなかった。 、、、電車がPyramidesの駅に着くと、黒人の若者は降りて行った。その背に向かってボクは大きな声を出して、「ありがとう」日本語で感謝して言った。
旅に出ると、他人に敏感になる。注意もする。危険な事もある。それだけにこんなちょっとした親切に出会うとなんだか矢鱈に嬉しかった。

 

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トイレ
古希を過ぎて四年も経つと、古い機械さながら、体のあちこちにガタが来て、外国旅行に出た時は色々と気を使う。特に留意して注意すべき点、と言うか、悩ましいものの一つがトイレである。欧州の街ではどこであれ、ご存知のように、日本の様に簡単にトイレは利用できない。駅に行けばある等と期待してはいけない。あったとしても有料で、1.0 or 0.5 Euroとか、払わされる。
 宿を出て、勇んで歩み出したのはいいものの、下着に装着すべき尿パッドを忘れたりして、
或は気付いても「えぃ、何とかなる、俺は老いても男だ」等と自分ながら意味の解らない屁理屈で息巻いて、すぐ後悔する目にあう。
 Alexander Platzをうろついて、土産物屋で葉書きを買ったりしているうち、いよいよ、トイレの呼び声が高く、身内に響いて来た。OKTOBERFESTとか、横長の大きな看板を横目に見て興味を惹かれてものんびり見物してなどいられない。焦る気持ちを抑えて、この辺りならと見当をつけ、DECATHELONとかいう名の付いた建物に入ると、Volltreffer! やったぁ、大当たり! 軽食喫茶という感じの店のある通路の、その奥の方に、あった。
 0.5 Euroを払って、用足しとなった。出入り口近くにスラリとして背の高い老婦人がいて、彼女がこの場の面倒をみていた。感じの良い婦人で、単なるurinieren, オシッコなのか、それともKabineを使うのかと聞いてきた。小か大か、いずれなるか?
 彼女と少し話をした。Ich lernte die deutche Sprache als ich jung war. Aber,,,というだけで「Sie sprechen gut!」とかお世辞を言ってくれて、無論、悪い気はせず、「ありがとう」と頭を下げてお辞儀をすると、彼女は「あなたたちってそうして」何とかかんとか、とボクの仕草にほほ笑んで、見えた歯の一部が欠けていた。彼女が幾つになるのか、分からない。ボクより若いのかもしれない。いずれにせよ、余り裕福とは思えず、だから歯も少し欠けたままで、こうしてトイレで働いているのだろう。それでも彼女はどこかおおらかで、なにか豊かな感じを漂わせていて、少し話し合うだけで、もう嬉しかった。彼女に幸いあれ。

Das Evangelim nach Matthäus

5-3

Selig sind, die da geistlich arm sind; denn ihrer ist das Himmelreich.

 

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74才貧乏老人ベルリンを行く―2019年九月
郵便局
裏町を歩いて、郵便局を探した。Tucholsky Strasseにあった書店に入り、背の高い、初老のご婦人に尋ねると、親切に通りまで一緒に出て、ほら、あそこに見える通りを左に行って、二番目のNovalis通りを右に入ると、それらしい印がある。それが郵便局、との話だった。行ってみると、確かにNovalis通りはあったものの、さて、肝心の郵便局はどこにも見当たらない。ボクはてっきり、日本の様に赤い郵便ポストか何か似たものがあるのかと思い、それらしいものを探したのが間違いだった。LOTTOと窓に貼られた文字を見たが、まさか宝くじ売りが郵便局を兼ねているとは想像も出来ずに通り過ぎ、やって来た赤鬼みたいなおばさん(Entsculdigung!)を呼び止め、最初は英語で聞いて見ると、なんだか不愛想な反応で、ドイツ語に切り替え、「奈辺に郵便局があるか否か、存知有るか?」「Können Sie mir sagen wo ich ein Postamt finden kann?」そう聞き直すと、彼女は不意に親切な感じになって、あのロトの所だという。中に入って聞け、と続けて、更に何やら早口にドイツ語でまくしたて、ボクはタジタジとして、分かった。Danke bestens、頭を下げて別れた。彼女は急いでいたらしく、背中を見せると、足早に去って行った。
 三年前、パリをうろついて、やはり郵便局を探し、こちらはそれらしい建物に入っていて、いかにも郵便局らしく 、送金窓口やら小包取り扱い、手紙、切って売り機が並んで、切手を買う要領が分かるまで、ちょっとまごついたのだが、ベルリンはいとも簡単で、なんだか雑貨屋みたいな店内に入り、ドイツ人にしては小柄な、1meter66centimetersのボクより10centimetersぐらい高い中年の、優しそうな男性に聞くと、ここで郵便物を取り扱っているとの由。送る絵葉書を手渡し、仕向け地を言い、要求された切手代を払えば、それで全て完了だった。因みに日本向け三枚、スウェーデン向け一枚で、計計4 Stück, 3.80Euroだった。切手は彼が葉書きに貼ってくれた。パリの場合と違って到って簡単。Deutche Post の傘下にあるDHLの印を探せば、それが郵便局なのだ。

英国人のバランスセンス
或る日わたしは片田舎のパブにいた、コーンウォール半島の奥まった処で、英国は南西部である。わたしはこのパブに前の年も来ていた。それ以来、何も変わったとは思えなかった。しかし、尿意を催して席を離れ、用足しにトイレを探すと、それは一階のどこにも見当たらなかった。直ぐに分かった事だが、それは二階に移されていた。
バーの席に戻るとわたしはカウンター越しに男に話しかけた。話に引きこもうと思ってのことだった。わたしは彼にこのパブがなんらかの改修を経て洗面所のみを上に移したのかどうか尋ねた。彼はわたしに一瞥をくれると、三十代前半の男だったが、わたしの問いに対して全くなんの反応も見せずじまいだった。そして彼は店の中に消えてしまい、するとまるで何かの合図でもあったかのように、若い黒人女性が目の前に現れた。彼女は全面に笑みを浮かべていたが、一言としてその豊かな、厚い唇をついて出る言葉はなかった。当惑して、わたしは黙ってビールを呑み続けた。
暫くして、わたしはパブからパティオ風の庭へ出ていくつかある椅子の一つに坐った。大きな分厚い木製のテーブルの回りに置かれたもので、客達が外の空気を楽しむためである。ビールのグラスを手にして、わたしは様々な色合いを見せる夕べの空を見上げた。西方には幽かな茜色、陰りゆく東は雲を集めて夜に向かっていた。
突然、中年の男が現れて、何気ないふうにわたしの方に歩いて来た。全く見知らぬ人である。わたしはちょっとギクッとしたが、それは生き物としての本能が生きとし生きる身に当然生じさせるものだった。男はわたしに話しかけて来たが、穏やかな声の調子だった。彼が言った趣旨は、昔、この店のトイレは一階にあった、それが ”変化があって皆はそいつを二階に上げたんだね、そうじゃないか?” というものだった。驚いて、わたしはどう応えていいか分からず、ただ言ったのだ。”そうなんだ、変っちゃったね.” 彼はゆっくりとわたしに耳を傾けて、踝を返すと、いずことなく夜の彼方へ消え去った。その正に瞬間、わたしはうっかり自失もいいところで何が起きたのか分からなかった。一体全体どうして現地の白人が全くのよそ者、おまけに放浪者風で明らかに東洋の男に話しかけたりするだろう。これには何か訳があるに違いない。
振り返って、わたしは遅まきながら悟ったのだが、この中年の男性はわたしと同じくパブの中のカウンター席にいたのだろう。彼はカウンターで何が起きているのか見守っていた。そこで起きた事をこの紳士がどう思ったのかわたしには分からない。ただはっきり分かるのは ”話しかけ話しかけられる”のは当然何か互いの釣り合いを取られて初めて定式が成立するものなのである。彼はバーでこの釣り合いが崩れるのを見たのだろう。そして決めたのが外れた釣り合いを正すということだった。
立ち去る前、彼はわたしを顧みて、わたしは彼を見上げた。よろしい。コーンウォールの夜は誰にも等しくしのび寄っていた。わたしは立ち上がり、帰路に就いた。宿主の許へ、とても軽い気分だった。

 British Balance Sense 訳

続き – Continued
All this that is happening before me somehow put me in mind of (those) the days when I worked for a British steamship company and I was reminded of a man’s sad face, (whose name was David). One day after work we were enjoying a glass of beer together when David confided in me. “Last night, on a train, a Japanese man, your age, give or take (one) a year or two, spat on me.” I was in my early thirties then, full of vigor thanks to good health. “Unprovoked?” I asked. David nodded yes. “So, you hit him or something?” I asked again. “No.” David looked sad, just sad, saying nothing more. I felt anger swelling up in me. “Why (not you didn’t) didn’t you do anything?” I demanded. David sat there wearing the same doleful countenance. In my sympathetic indignation and carried away with the emotion, I further said something that I should never have said. “Nothing, isn’t that kind of reverse discrimination?” I was probably being illogical and irrelevant, you could even throw silly into the bargain as well. It won’t constitute discrimination if you do not spit back when you are spat on. But, I was too late. David stood up and left (the) his place. Seeing him go out the door with his wide shoulders bent forward, I suddenly felt extremely sorry for him.
The train arrived at the last station but one. The Indian guy got out. I got out also though it was not my station. “Sorry, very sorry.” I caught myself saying to the gargantuan. He looked me briefly in the eye and responded. “No, it’s not your fault.” and looked away. “I know it’s not my fault!” I was close to blurting out. “ That’s not the point.” I wanted to say, but words failed me.
I stood away and looked on as he did not seem to leave the station (and) but went on looking into the carriage. I was unable to see his eyes from where I stood. However, no doubt, he must be glaring at the bleeding man. But, what’s the sense? He had a fight with another man and punched him. That’s that and that should be all. What’s the matter with him, that keeps him standing in front of a shut train car? I wondered. Does he (ever) dare to break the glass with his Herculean fist (and) just get into the train to slug the man again? In reality, however, he just kept standing still. What’s the sense in doing so? The question came up again.
The train started, soon gathered speed and sped before him and me. He turned and went down the stairs in search for an exit. For a fraction of a second, he looked in my direction and I seem to have seen in his eyes a glint of frustration that had been pent up inside him living as a man (foreign) totally foreign to this ethnically close-knit nation, who in expressing emotions are so modest often to the point of being cowardly or hypocritical, it is not difficult to imagine that he must have gone through a lot already.

Many moons ago, I met an American woman by chance, who was in love with India. She told me that it was a great country. “How great?” I asked. She answered right away, “People there never say you shouldn’t do this or shouldn’t do that. Unlike, “Unlike what?” She did not make (any) reply and just smiled feebly. I saw (a) the tiny silver ring on her nostril glint as she smiled.