f:id:Ojinjin:20200120200548j:plain

親切
ベルリンにボクは観光旅行を目的として来たのではない。それでも是非とも訪れたい場所があった。動物園だ。そのベルリン動物園からの帰り道、ボクは宿に近いOranienburgerという地下鉄駅まで、U-Bahn-Stationを探してウロウロ、あった、あった、Zoologischer Gartenと言う名の駅を見つけ、そこに続く地下通路で見つけた鉄道網を眺めていた。ふと気づくといつの間にかボクの脇に立って初老の男がいた。Kunden SVC (顧客サーヴィス)の係りだったらしく、ドイツ人にしては小柄で、人の良さそうな感じ、それらしいござっばりした身なりだった。「Oranienburgerには地下鉄では帰れない。S-Bahnに乗って行かなければならない」彼はそう言ってボクのやって来た道を戻り、階段を上って、S-Bahnの見える処に出て、路線図も手渡してくれた。穏やかに、にこやかに、終始親切な態度だった。ボクは最後に握手して彼と別れた。下手でもちょっとはドイツ語で少し何か話してみるべきだったと、これは例によって幾つになっても臆病なボク爺さんの後悔ではある。
 果たして帰り道、しかし、S-Bahnに乗ったはいいものの、ボクはどうやら逆方向に向かっている事に気付いた。やって来た時に見かけた駅の名が出て来ない。Savignyplatzとか、まるで見知らぬ駅名が目の前を去っていく。窓際に立ってこうして良く見る事が出来たのも、最初、車両に乗り込んだボクがほぼ真ん中辺りに立っていると、扉近くにいた若い男が「この方が楽だろう」とボクに場所を譲ってくれたのだった。ぼけっと、所在なげに立っているボクに気付いて、気を使ってくれたのだ。嬉しかった。礼を言って、扉側に寄り掛かる様にしてボクは過ぎ去る駅を見ていたのだ。それで可笑しいと気付いた訳だった。ボクは慌てて次の駅で電車から飛び出た。Charlottenburgという駅だった。
、、、、、つけても思い出されるのはパリで一人、古希を祝ってメトロを乗り回していた時の事だった。やはり親切な若者に出会った。カルチェラタンからの帰路、ボクはメトロ7号線に乗って、席がなかったので車両の隅っこに立っていた。ボクの近くには非常用の席を倒して黒人の若者が坐っていた。ボクはバックパックではなく、横長のスポーツバッグに五十四センチある尺八を入れ、それを肩に引っ掛けていた。歌集や譜面、ミュージックスタンドも入って、かなり重かった。多分、ボクは疲れた顔をしていたのだろう。黒人の若者と目が合った。同じ黒人とは言っても人によって肌色は違い、濃淡も異なる。若者は取り分け黒く、しかも顔の左側は額から頬にかけてサメ肌のようにざらついた感じだった。その目は異様に赤い。視線が合った時、彼は鋭い眼差しを向けて来た。ボクはすぐ目を逸らしたが、少しして、青年が、坐れ、とジェスチャーしてきた。席を譲るよ、と態度で示したのだ。ボクが素早く彼を観察したように、彼もまたボクを見て、明らかに東洋のどこか知らぬ国から来た、少なくとも老人であるのは即座に悟ったのだろう。「いいよ、大丈夫だよ」、ボクは空元気を見せて言った。英語でしか言えなかった。「Don’t worry, it’s all right with me」心配しないでいいよ。しかし、若者は気持ちを変えなかった。座ってくれ、繰り返した。それ以上断っては却って失礼になる。せっかくの相手の気持ちを無駄にしてしまう。メルシー、「merci beaucoup」ボクはせめてそう言って、譲られた席に腰を下ろした。そして自分がどんなに疲れていたか、坐ってみて分かった。有り難かった。故国日本でも若者に席を譲られたことなど滅多にない。それどころかシルバーシートに坐って平気な若者をどれほど目にする事か。他人に対して冷淡だと評判のフランスでこんなねぎらいを受けるとは夢にも思ってはいなかった。 、、、電車がPyramidesの駅に着くと、黒人の若者は降りて行った。その背に向かってボクは大きな声を出して、「ありがとう」日本語で感謝して言った。
旅に出ると、他人に敏感になる。注意もする。危険な事もある。それだけにこんなちょっとした親切に出会うとなんだか矢鱈に嬉しかった。